翻訳元:ESPN、2017年8/25公開
(格闘ゲームに詳しくない方は、こちらの訳註付きバージョンをお勧めします)
それは大きな問題だった。
2002年、当時17歳の谷口 "ときど" 一(はじめ)は、本来ならば大学入試へ向けて準備をしていなければならなかった。彼は、超一流進学校である東京の麻布高等学校の生徒。父・谷口尚は、日本最高峰の医科大学のひとつ、東京医科歯科大学の教授だ。しかしときどは、参考書を開いたまま無為に指をもてあそんでいた。彼の心はロサンジェルスにあった。
望みはEVO優勝。
これはときどにとって最後のチャンスだった。ゲームをプレイすることは永遠にできず、そしていつの日か、大学へ行き、就職して人生は進んでいくということはわかっていた。そこで父に提案をした。ロサンジェルスに行き、初めて開催されるEvolution Championship Seriesで闘うことを許してくれれば、帰国してからはすぐにでも勉学に完全に集中できる、というのだ。
驚いたことに、谷口尚の答えは "イエス" だった。
ときどはロサンジェルスに飛び、Capcom vs. SNK 2のトーナメントで優勝し、1,500ドルを手に帰国する — この賞金は全てゲームセンターで使い果たされることになる。それでもときどは約束通り受験勉強に励み、日本最高学府・東京大学へ合格する。
しかし15年後、彼は再びEVOのステージに戻ってきた — 今度はマンダレイ・ベイ・コンヴェンションセンター(訳註:最終日の会場はイベントセンターなのでおそらく原文の間違い)での、何千もの観客の前、35,000ドルがかかったストリートファイターVでの優勝だ。ときどは今、NBAを3度制したRick Foxのチーム・Echo Fox所属のプロプレイヤーだ。そして彼は世界で最も名の知られたプロeスポーツ選手の1人になった。
15年以上前のあの "イエス" 、そして父の承諾が、彼をその舞台に立たせたのだ。
情熱が可能性を生む
1985年の7月7日、谷口尚は沖縄にはいなかった。その為、息子の誕生を目にすることは出来なかった。東京に戻って働いていたのだ。
同じく歯科医であった彼の妻ユキコは、妊娠後期になり故郷の沖縄へ戻っていた。日本で最も南に位置する県だ。谷口尚は東京医科歯科大学で鞭を取っていた為、独り東京に残らなければならなかった。
「そのあと、一ヶ月後ですね、沖縄に行きました」。自身のオフィス、息子の隣でそう言う。
谷口尚は患者の診察を終えたばかりで白衣のままだ。ときども仕事着 — Echo Foxの目立つロゴが真ん中に入ったシャツを着ている。谷口尚は白衣を脱いだ。
ときどは、3人のいとこと姉のアヤの中で一番年下だ。両親が共働きだった為、ときどと彼の姉は同じマンションの3階に住むいとこのところまで行っては遊んでいた。ときどは任天堂ファミリーコンピューターの "スーパーマリオブラザーズ" で初めてゲームに触れ、小学生の時に友人の家で "ストリートファイターII" を勧められる。
彼はそれを気に入り、プレイし始める。うんと長く。
中学と高校時代を通じ、ときどは格闘ゲームをプレイし続け、大会にも参加し続けた。そして彼は国内最強の1人という名声を得る。しかし、このようなスキルがあるにも関わらず、学業は常に彼の人生の一部だった。
(引用元:ESPN)
谷口 "ときど" 一の父は、若い頃の殆どを旅をして過ごし、その経験が、
後にときどにやりたいようにやらせ、格闘ゲームでのキャリアを広げさせることになる考え方を作る。
ときどは東京大学でマテリアル工学を専攻し、2008年に卒業した。その後、彼は大学院で環境問題についての修士号の為の単位を履修し始めたが、研究室での仕事はとても難しく、結局研究室に行かなくなってしまう(訳註:この点は『東大卒プロゲーマー』に詳しい)。
ときどは何をするべきかわからなくなってしまった。日本では、殆どの学生は大学3年生の間に就職先を決めることを目指す。生涯を決めると言っていいようなもので、この期間に就職先を得ることの出来なかったものは見下される。
「当時僕は公務員になることを考えていました。とても安定した仕事ですが、決して高給というわけではありません」と、ときどは言う。「でも、公務員ならば休暇をとって趣味の為に時間を使えると思ったんです、ゲームの為に」
ときどが、日本で最も有名なゲーマー梅原大吾がプロゲーマーになるという報せを聞いたのはこの時期だった。
そして当時24歳のときどは、プロゲーマーの道を目指すべきかどうか父に相談する。またしても、彼は驚いた。
「すぐに」谷口尚は語る。「息子の背中を押しました」
谷口尚は、昔ながらの日本の親とは違い、自分の息子がゲームにのめりこむことを気にしてはいないようだった。彼は趣味と情熱を持つことは良いことだと感じていたのだ。谷口尚にとってそれは音楽だった。彼は、音楽家になることを夢見ていた。
「でも才能が無くてね」と自嘲めいて言う。「当時は、収入面で言えば歯科医はとても良い仕事だったんですよ」
谷口尚はシンセサイザーの魅力に捉えられていた。一台あれば、モーツァルトを再現できる。しかしシンセサイザーは今も昔も、とても高価だ。
彼の目標は、開業歯科医として働いて稼いだ収入でシンセサイザーを購入し、交響曲を作曲することだった — そして彼はそれを達成し、同僚や通勤をする人たちの耳を癒している。
「3年前、このオフィスにはたくさんのシンセサイザーがありました」と、谷口尚は言う。
音楽への愛は彼の仕事を活発にもした。音への理解と、癌治療の為に顎を切除した患者が使う装具についての専門知識が、これらの患者に声の出し方を教える為の研究を進めさせた。
彼はいつも情熱を互いに結びつけようとした。そして彼のこういった情熱の追求への欲望が、はたから見れば無関係に見えるかもしれないが、息子の前途に広がる可能性に対してオープンにさせた。
慣習の打破
日本は概してとても保守的な国で、多くの親は子供がより普通の道を歩むように育て、そのように促す。
2002年の谷口尚の判断それ自体は、色々な意味で驚くべきことだった。しかしながら彼自身にとっては、論理的な選択だった。
「当時私はこの大学の副学長で — 学生課を担当していました。本当に多くの学生が厄介事の相談にきましたね」と谷口尚は言う。彼はたびたび学生達と親との衝突を耳にすることになり、それが、将来を考える学生達が直面する問題についての彼の考え方を形成した。
「父はどうかしてると思いました。普通の親なら『やってみろ、自分の道を進め』なんて絶対言いませんよ」と、ときどは言う。
ときどはEVO 2002に参加した日本人の中では最年少だったが、年上のプレイヤー達と仲良くなる方法があった。彼は学校で英語を学びそこそこのものを身につけていたが、「殆どの日本人プレイヤーは英語をしゃべれない」ので、ときどが日本人プレイヤー達の実質的な通訳となっていた。
ときどは、英語が上手ではないことを認めた上で、「だけど、それでも何とかコミュニケーションをとることができますし、それが嬉しかったのとちょっとした自信にもなりました」と語る。
これはEVOやCapcom CupがESPNで放送されたり、Twitchの配信で何十万もの視聴者を得るようになるずっと以前の話だ。しかしときどはストリートファイターの継続的な成長を目にする。はじめ大学の体育館で開催されたEVOは、すぐにラスヴェガスでの開催になり、最終的にマンダレイ・ベイ・イベントセンターで開催されるようになる。
谷口尚は、息子が今年のEVOで戦う姿を見ることはできなかったが、ときどの偉業はニュースサイトでも報じられた。その翌日、たくさんのスタッフが彼を訪れ、息子の偉業を祝ってくれた。
(引用元:ESPN)
「世界チャンピオンになるのはもの凄く大変でしょう」谷口尚は言う。「私にすれば、歯科医になるのはとても簡単なことですよ」
来年の3月で谷口尚が大学に来てから38年を数える。それは引退を考える時期でもあり — そして、ときどの情熱にのめり込むことを考えていた。
「できれば、息子のマネージャーになりたいと思っています」と想いを語る。「そして一緒に世界をまわりたいですね」
ときども初耳だった。目を細め父の方を向き、じっと見つめる。谷口尚も息子に目を向け、笑う。
「格ゲーをやりながら死にたい」
ときどは現在32歳。人生の半分以上は格闘ゲームに打ち込んできた。大きなスポンサーに幾つもの大会での優勝、彼の前途は有望に見える。
「引退なんてしたくないですね」と、ときど。「個人的には、Evoで優勝したからと言って最強だとは思いません。世界には僕より強いプレイヤー達がいることはわかっています」
しかしEVOやCapcom Cup優勝ですら最強を意味しないのならば、何をもって最強だというのか?
その答えに、ときどは仮の話を持ち出した。
「格ゲー星人が地球を侵略しに来たとしますよ」と始める。「もし格ゲー星人が勝って僕らが負けたら、格ゲーをすることが出来なくなります。地球代表として1人だけ格ゲー星人と闘えます。あなたなら誰を選びますか?」
ときどは、この挑戦を引き受けることができるのはたった1人しかいないと考える — ウメハラだ。ときどは、躊躇なく進んでこの役目を負うことができるようになるまで、自分を最強だとは考えない。また、例えそこまで辿り着いたとしても、ときどは満足しないだろう。
「格ゲーをやりながら死にたいですね」と彼は言う。
しかし谷口尚は、ときどは次の大きなステップを踏むべき時期に立っていると考えている。
「結婚して、良いお嫁さんをもらってくれればいいんですけどね」と言う谷口尚が結婚したのは28歳のとき。「奥さんがいればもっともっと強くなるぞ、と言いたいですね」
ときどは結婚のことを頭に浮かべ忍び笑いをして、再び父に目線をやり、長いこと見つめた。
チャンピオンを生む
もしときどが普通の日本の家庭に生まれていたら、格闘ゲームはただの学生時代の間だけの情熱で終わっていただろう。だがそうではなかった。彼の父は、ときどのeスポーツキャリアに消えることのない影響を与えた。
谷口尚は、人生には勉強や労働以上のものがあるとわかっていた。それは、シカゴに住んだり、作曲のためにシンセサイザーを買ったりといった形であらわれた。人生には、作曲のようにクレッシェンドや各楽章、テンポの変化やコーダが必要なのだ。
そのような理解がなければ、ときどは小さな個室に座っていたかもしれず、7月にラスヴェガスで観客に向けてやって見せたように、豪鬼の真似をして仁王立ちすることもなかったかもしれない。
「父は僕よりも30歳年上で、経験も豊富、僕自身だけではなく周囲のことまで見ることができます」と、ときどは父のことを評した。「良いアドバイスをくれましたよ」
2002年、当時17歳の谷口 "ときど" 一(はじめ)は、本来ならば大学入試へ向けて準備をしていなければならなかった。彼は、超一流進学校である東京の麻布高等学校の生徒。父・谷口尚は、日本最高峰の医科大学のひとつ、東京医科歯科大学の教授だ。しかしときどは、参考書を開いたまま無為に指をもてあそんでいた。彼の心はロサンジェルスにあった。
望みはEVO優勝。
これはときどにとって最後のチャンスだった。ゲームをプレイすることは永遠にできず、そしていつの日か、大学へ行き、就職して人生は進んでいくということはわかっていた。そこで父に提案をした。ロサンジェルスに行き、初めて開催されるEvolution Championship Seriesで闘うことを許してくれれば、帰国してからはすぐにでも勉学に完全に集中できる、というのだ。
驚いたことに、谷口尚の答えは "イエス" だった。
ときどはロサンジェルスに飛び、Capcom vs. SNK 2のトーナメントで優勝し、1,500ドルを手に帰国する — この賞金は全てゲームセンターで使い果たされることになる。それでもときどは約束通り受験勉強に励み、日本最高学府・東京大学へ合格する。
しかし15年後、彼は再びEVOのステージに戻ってきた — 今度はマンダレイ・ベイ・コンヴェンションセンター(訳註:最終日の会場はイベントセンターなのでおそらく原文の間違い)での、何千もの観客の前、35,000ドルがかかったストリートファイターVでの優勝だ。ときどは今、NBAを3度制したRick Foxのチーム・Echo Fox所属のプロプレイヤーだ。そして彼は世界で最も名の知られたプロeスポーツ選手の1人になった。
15年以上前のあの "イエス" 、そして父の承諾が、彼をその舞台に立たせたのだ。
同じく歯科医であった彼の妻ユキコは、妊娠後期になり故郷の沖縄へ戻っていた。日本で最も南に位置する県だ。谷口尚は東京医科歯科大学で鞭を取っていた為、独り東京に残らなければならなかった。
「そのあと、一ヶ月後ですね、沖縄に行きました」。自身のオフィス、息子の隣でそう言う。
谷口尚は患者の診察を終えたばかりで白衣のままだ。ときども仕事着 — Echo Foxの目立つロゴが真ん中に入ったシャツを着ている。谷口尚は白衣を脱いだ。
ときどは、3人のいとこと姉のアヤの中で一番年下だ。両親が共働きだった為、ときどと彼の姉は同じマンションの3階に住むいとこのところまで行っては遊んでいた。ときどは任天堂ファミリーコンピューターの "スーパーマリオブラザーズ" で初めてゲームに触れ、小学生の時に友人の家で "ストリートファイターII" を勧められる。
彼はそれを気に入り、プレイし始める。うんと長く。
中学と高校時代を通じ、ときどは格闘ゲームをプレイし続け、大会にも参加し続けた。そして彼は国内最強の1人という名声を得る。しかし、このようなスキルがあるにも関わらず、学業は常に彼の人生の一部だった。
(引用元:ESPN)
谷口 "ときど" 一の父は、若い頃の殆どを旅をして過ごし、その経験が、
後にときどにやりたいようにやらせ、格闘ゲームでのキャリアを広げさせることになる考え方を作る。
後にときどにやりたいようにやらせ、格闘ゲームでのキャリアを広げさせることになる考え方を作る。
ときどは東京大学でマテリアル工学を専攻し、2008年に卒業した。その後、彼は大学院で環境問題についての修士号の為の単位を履修し始めたが、研究室での仕事はとても難しく、結局研究室に行かなくなってしまう(訳註:この点は『東大卒プロゲーマー』に詳しい)。
ときどは何をするべきかわからなくなってしまった。日本では、殆どの学生は大学3年生の間に就職先を決めることを目指す。生涯を決めると言っていいようなもので、この期間に就職先を得ることの出来なかったものは見下される。
「当時僕は公務員になることを考えていました。とても安定した仕事ですが、決して高給というわけではありません」と、ときどは言う。「でも、公務員ならば休暇をとって趣味の為に時間を使えると思ったんです、ゲームの為に」
ときどが、日本で最も有名なゲーマー梅原大吾がプロゲーマーになるという報せを聞いたのはこの時期だった。
そして当時24歳のときどは、プロゲーマーの道を目指すべきかどうか父に相談する。またしても、彼は驚いた。
「すぐに」谷口尚は語る。「息子の背中を押しました」
谷口尚は、昔ながらの日本の親とは違い、自分の息子がゲームにのめりこむことを気にしてはいないようだった。彼は趣味と情熱を持つことは良いことだと感じていたのだ。谷口尚にとってそれは音楽だった。彼は、音楽家になることを夢見ていた。
「でも才能が無くてね」と自嘲めいて言う。「当時は、収入面で言えば歯科医はとても良い仕事だったんですよ」
谷口尚はシンセサイザーの魅力に捉えられていた。一台あれば、モーツァルトを再現できる。しかしシンセサイザーは今も昔も、とても高価だ。
彼の目標は、開業歯科医として働いて稼いだ収入でシンセサイザーを購入し、交響曲を作曲することだった — そして彼はそれを達成し、同僚や通勤をする人たちの耳を癒している。
「3年前、このオフィスにはたくさんのシンセサイザーがありました」と、谷口尚は言う。
音楽への愛は彼の仕事を活発にもした。音への理解と、癌治療の為に顎を切除した患者が使う装具についての専門知識が、これらの患者に声の出し方を教える為の研究を進めさせた。
彼はいつも情熱を互いに結びつけようとした。そして彼のこういった情熱の追求への欲望が、はたから見れば無関係に見えるかもしれないが、息子の前途に広がる可能性に対してオープンにさせた。
2002年の谷口尚の判断それ自体は、色々な意味で驚くべきことだった。しかしながら彼自身にとっては、論理的な選択だった。
「当時私はこの大学の副学長で — 学生課を担当していました。本当に多くの学生が厄介事の相談にきましたね」と谷口尚は言う。彼はたびたび学生達と親との衝突を耳にすることになり、それが、将来を考える学生達が直面する問題についての彼の考え方を形成した。
「父はどうかしてると思いました。普通の親なら『やってみろ、自分の道を進め』なんて絶対言いませんよ」と、ときどは言う。
ときどはEVO 2002に参加した日本人の中では最年少だったが、年上のプレイヤー達と仲良くなる方法があった。彼は学校で英語を学びそこそこのものを身につけていたが、「殆どの日本人プレイヤーは英語をしゃべれない」ので、ときどが日本人プレイヤー達の実質的な通訳となっていた。
ときどは、英語が上手ではないことを認めた上で、「だけど、それでも何とかコミュニケーションをとることができますし、それが嬉しかったのとちょっとした自信にもなりました」と語る。
これはEVOやCapcom CupがESPNで放送されたり、Twitchの配信で何十万もの視聴者を得るようになるずっと以前の話だ。しかしときどはストリートファイターの継続的な成長を目にする。はじめ大学の体育館で開催されたEVOは、すぐにラスヴェガスでの開催になり、最終的にマンダレイ・ベイ・イベントセンターで開催されるようになる。
谷口尚は、息子が今年のEVOで戦う姿を見ることはできなかったが、ときどの偉業はニュースサイトでも報じられた。その翌日、たくさんのスタッフが彼を訪れ、息子の偉業を祝ってくれた。
(引用元:ESPN)
「世界チャンピオンになるのはもの凄く大変でしょう」谷口尚は言う。「私にすれば、歯科医になるのはとても簡単なことですよ」
来年の3月で谷口尚が大学に来てから38年を数える。それは引退を考える時期でもあり — そして、ときどの情熱にのめり込むことを考えていた。
「できれば、息子のマネージャーになりたいと思っています」と想いを語る。「そして一緒に世界をまわりたいですね」
ときども初耳だった。目を細め父の方を向き、じっと見つめる。谷口尚も息子に目を向け、笑う。
「引退なんてしたくないですね」と、ときど。「個人的には、Evoで優勝したからと言って最強だとは思いません。世界には僕より強いプレイヤー達がいることはわかっています」
しかしEVOやCapcom Cup優勝ですら最強を意味しないのならば、何をもって最強だというのか?
その答えに、ときどは仮の話を持ち出した。
「格ゲー星人が地球を侵略しに来たとしますよ」と始める。「もし格ゲー星人が勝って僕らが負けたら、格ゲーをすることが出来なくなります。地球代表として1人だけ格ゲー星人と闘えます。あなたなら誰を選びますか?」
ときどは、この挑戦を引き受けることができるのはたった1人しかいないと考える — ウメハラだ。ときどは、躊躇なく進んでこの役目を負うことができるようになるまで、自分を最強だとは考えない。また、例えそこまで辿り着いたとしても、ときどは満足しないだろう。
「格ゲーをやりながら死にたいですね」と彼は言う。
しかし谷口尚は、ときどは次の大きなステップを踏むべき時期に立っていると考えている。
「結婚して、良いお嫁さんをもらってくれればいいんですけどね」と言う谷口尚が結婚したのは28歳のとき。「奥さんがいればもっともっと強くなるぞ、と言いたいですね」
ときどは結婚のことを頭に浮かべ忍び笑いをして、再び父に目線をやり、長いこと見つめた。
谷口尚は、人生には勉強や労働以上のものがあるとわかっていた。それは、シカゴに住んだり、作曲のためにシンセサイザーを買ったりといった形であらわれた。人生には、作曲のようにクレッシェンドや各楽章、テンポの変化やコーダが必要なのだ。
そのような理解がなければ、ときどは小さな個室に座っていたかもしれず、7月にラスヴェガスで観客に向けてやって見せたように、豪鬼の真似をして仁王立ちすることもなかったかもしれない。
「父は僕よりも30歳年上で、経験も豊富、僕自身だけではなく周囲のことまで見ることができます」と、ときどは父のことを評した。「良いアドバイスをくれましたよ」
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